悪質な運転による悲惨な死亡事故が起きるたび、ニュースで繰り返されるのが「なぜ『危険運転致死傷罪』ではなく『過失運転致死傷罪』なのか」という疑問の声です。 こうした現状を変えるべく、法務省の「自動車運転による死傷事犯に係る罰則に関する検討会」は2024年11月、危険運転致死傷罪の見直しに向けた報告書を取りまとめました。この報告書では、飲酒や高速度運転に対し、具体的な「数値基準」を導入する案など、処罰のあり方を大きく変えうる議論が展開されています。
なぜ今、「抜本的な見直し」が必要なのか?
危険運転致死傷罪の見直し議論が本格化した背景には、過去20年以上にわたる法改正の歴史と、それにもかかわらず埋まらなかった「被害者感情と法運用の溝」という深刻な問題があります。
「逃げ得」を許さないための法改正の歴史
かつて、自動車事故はどれほど悪質であっても、基本的には「業務上過失致死傷罪」(最高刑は懲役5年)として処理されていました。しかし、飲酒運転や無謀な運転による悲惨な事故が後を絶たず、「人の命を奪っておきながら刑が軽すぎる」という世論の高まりを受け、法整備が進められてきました 。
- 平成13年(2001年): 刑法改正により「危険運転致死傷罪」を新設。
- 平成19年(2007年): 「自動車運転過失致死傷罪」を新設し、過失犯の罰則を強化。
- 平成25年(2013年): 自動車運転死傷処罰法(現在の法律)が成立。危険運転の類型が整理・拡充されました 。
このように、法律は「悪質な運転は厳罰に処す」という方向で進化してきました。しかし、運用の現場では新たな「壁」が立ちはだかることになります 。
「できてしまった」から「危険ではない」という矛盾
現行の危険運転致死傷罪が抱える最大の問題は、「結果的に事故を起こすまで走れていた」事実が、皮肉にも「危険運転ではない」という弁護材料になってしまう点にあります。
- 飲酒運転の「正常な運転」の壁 法律上の要件である「アルコールの影響により正常な運転が困難な状態」について、裁判では非常に厳密な立証が求められます。 たとえ泥酔状態であっても、事故現場の手前まで直線道路を車線逸脱せずに走れていたり、一時停止をしていたりすると、「一応の運転操作はできていた(=正常な運転が困難とまでは言えない)」と判断され、危険運転致死傷罪の適用が否定されるケースが相次ぎました 。
- 高速度運転の「制御困難」の壁 高速度運転の要件である「進行を制御することが困難な高速度」も同様です。 「ハンドルやブレーキ操作が効かないほどの速度」という解釈が一般的であるため、猛スピードでもカーブを曲がりきれていたり、直線道路でハンドル操作を誤らずに走っていたりすると、「制御困難な速度ではなかった」とみなされることがあります。実際、他車や歩行者がいなければ事故にならなかったようなケースでは、常軌を逸した速度でも過失犯にとどまる事例が存在します 。
「適用基準が曖昧」という批判
こうした実態に対し、事故の遺族からは「認定基準が曖昧で、裁判官や検察官によって判断が分かれる」「悪質性が法廷で正当に評価されない」といった切実な批判の声が上がっていました 。 今回の検討会は、こうした批判を受け止め、「危険性・悪質性が高い行為を、個別の事情に左右されずに確実に処罰できる仕組み(数値基準など)」を作るべきではないか、という問題意識からスタートしています 。
アルコール・高速度への「数値基準」導入
今回の見直し議論において、最も画期的かつ具体的な提案が、アルコールや高速度運転に対する「数値基準」の導入です。これは、従来の「個別の状況を見て判断する」というスタイルから、「一定の基準を超えれば一律に危険とみなす」という形式への大転換を意味します。
【飲酒運転】「お酒に強い」は通用しない仕組みへ
科学的知見による「一律判断」
これまでの裁判では、「酒に強いから正常に運転できていた」という被告側の主張が争点になることがありました。 しかし、今回の検討会で行われた専門家ヒアリングでは、「アルコールが運転能力を阻害する程度は、基本的に人種や性別にかかわらず血中アルコール濃度に対応する」という医学的な見解が示されました 。つまり、「酒に強い・弱い」という個人差に関係なく、一定の濃度を超えれば脳の抑制作用により誰でも等しく運転能力が低下するという科学的根拠が重視されたのです 。
この知見に基づき、個人差やその時の体調を問わず、基準値を超えていれば一律に「正常な運転が困難な状態」であると認定する方式の導入が検討されています 。
具体的に検討されている「数値」
報告書では、危険運転致死傷罪(傷害罪・傷害致死罪に匹敵する悪質性)の対象とする基準値として、以下の3つの案が例示されています 。
- 呼気1リットルにつき 0.5mg 以上(血液1mlにつき1mg以上):
- かなり高い濃度であり、酩酊の度合いが著しいレベル。
- 呼気1リットルにつき 0.25mg 以上(血液1mlにつき0.5mg以上):
- 酒気帯び運転(0.15mg以上)の基準を大きく超えるレベル。
- 呼気1リットルにつき 0.15mg 以上(血液1mlにつき0.3mg以上):
- 現行の酒気帯び運転の基準値と同等。
ドイツなど海外では一定の血中アルコール濃度で「絶対的運転不能」とみなす基準が確立しており、日本でもこれを参考に議論が進められています 。
【高速度運転】「制御困難」から「対処困難」への転換
「真っ直ぐ走れる」なら罪にならない?
現行法の要件である「進行を制御することが困難な高速度」は、判例上、「ハンドルやブレーキ操作が著しく困難な速度」と解釈されてきました 。 この解釈の盲点は、「超高速度でも、直線道路をただ走るだけなら制御できている(ハンドル操作等は不要)」と判断されてしまう点にあります 。実際、制限速度を大幅に超えていても、スピンなどをしていない限り適用が否定されるケースがありました。
「対処困難性」
そこで今回新たに提唱されたのが、「対処困難性」という考え方です 。 これは、「車を走らせることができるか」ではなく、「とっさの危険に対して安全に止まったり避けたりできるか」を基準にするものです。専門家のヒアリングでも、速度が上がれば停止距離が伸び、回避操作も困難になることは物理的に避けられないことが確認されました 。 つまり、「運転技術が高くても、物理的に事故回避が不可能な速度」であれば、一律に処罰対象とすべきだという論理です。
「制限速度の◯倍」
この「対処困難性」を客観的に判定するために、具体的な数値基準を設ける議論が行われています。 報告書では、国民への分かりやすさや、明らかに危険性が高い速度という観点から、以下のような基準が挙げられています 。
- 制限速度の「2倍」の速度
- 制限速度の「1.5倍」の速度
「常軌を逸した、およそ対処を放棄しているといえるような高速度」を基準値として設定し、それを超えれば道路状況にかかわらず危険運転とみなす方向で調整が進んでいます 。
新設される「危険運転」の類型
飲酒や速度違反といった古典的な危険運転に加え、今回の検討会では、スマートフォン使用による「ながら運転」や、ドリフト走行などの「曲芸的な運転」を新たな処罰対象に加えるかどうかが議論されました。 しかし、報告書ではこの2つに対して対照的な方向性が示されています。
【ながら運転】「スマホ凝視」の壁は厚く、慎重論が優勢
スマートフォンの画面を見ながら運転する、いわゆる「ながら運転」による事故は後を絶ちません。検討会でも「現行の危険運転致死傷罪に匹敵する危険性・悪質性を有するものもある」との意見が出されました 。 しかし、実際にこれを危険運転致死傷罪(最長懲役20年)として類型化することには、「線引きの困難さ」と「立証の壁」という2つの大きなハードルがあり、報告書では「慎重な検討が必要」と結論づけられています 。
「悪質さ」の線引きが難しい
「画面を見ていた」といっても、その行為は千差万別です。
- 対象物の違い: スマホでゲームをしていた場合と、カーナビで経路を確認した場合、あるいは道路沿いの看板や景色を見ていた場合で、悪質性をどう区別するのか 。
- 理由の違い: 娯楽目的の動画視聴と、緊急の連絡や渋滞情報の確認とで、一律に同罪として扱えるか 。
- 時間の違い: 何秒見たら「危険運転」になるのか。状況によって危険な時間は異なるため、一律の基準(例:2秒以上など)を作るのは難しい 。
このように、行為の態様が多様すぎるため、危険運転致死傷罪として処罰すべき「極めて悪質な行為」だけを法律の条文で的確に切り出すことは困難とされました。
「立証の壁」が高い
もう一つの決定的な問題は、事故後に「運転者が何秒間スマホを見ていたか」を証明することの難しさです。 ドライブレコーダーなどで車内の様子が明確に記録されていない限り、「事故の直前、数秒間にわたって画面を注視していた」という事実を検察側が立証するのは極めてハードルが高いと指摘されました 。 立証できなければ法律を作っても適用されず、抑止効果も期待できないという懸念も示されています 。
【曲芸運転】「ドリフト走行」等は処罰対象へ
一方、「曲芸的な走行行為」については、新たな危険運転の類型として追加することに前向きな議論が展開されました。
「あえて制御を失わせる」行為を捕捉
具体的には、「タイヤを滑らせたり浮かせたりすることにより、自動車の進行を制御するための機能を安定的に発揮することができない状態」で走行させる行為が想定されています 。 いわゆるドリフト走行やローリング走行、ウィリー走行などがこれに当たります。
これらの行為は、自動車が本来持っている「走る・曲がる・止まる」という制御機能を、運転者が意図的に放棄・阻害するものであり、その状態で事故を起こせば極めて危険かつ悪質であるという認識で一致しました 。
「緊急回避」との区別に配慮
ただし、単に「タイヤが滑った」だけで処罰されることのないよう、配慮も求められています。 例えば、飛び出してきた子供を避けようとして急ハンドルを切り、結果的にタイヤが滑ってしまったような「緊急回避」のケースや、意図せずスリップしてしまった場合などは除外する必要があります 。 そのため、法律の条文にする際は、「意図的に(殊更に)タイヤを滑らせた」といった主観的な要件を盛り込むなどして、本当に悪質な暴走行為のみを狙い撃ちにする工夫が検討されています
なぜ「見送り」? 変わらない3つの重要論点
数値基準の導入など踏み込んだ議論が行われた一方で、被害者遺族などから強い要望があったにもかかわらず、「見直しは困難」「慎重な検討が必要」とされ、事実上の見送り方向となった論点があります。 そこには、感情論だけでは乗り越えられない、刑法ならではの「論理の壁」が存在しました。
赤信号無視:「わざと(殊更に)」の壁は崩せず
赤信号無視による死亡事故は、常識的に考えれば極めて危険です。しかし、現行法で危険運転致死傷罪を適用するには、「赤色信号を**殊更に(ことさら に)**無視し」たこと、つまり「赤信号だと分かっていて、あえて無視した」という強い故意の立証が必要です 。
「うっかり」との境界線
議論では、「『ボーッとしていた』という弁解が通れば危険運転にならないのはおかしい」という批判が出されました 。しかし、検討会の多数意見は、この要件の削除や緩和には否定的でした。 その最大の理由は、「うっかり見落とした過失(過失運転)」と「信号に従う意思がない故意(危険運転)」の境界線が曖昧になることへの懸念です 。 もし要件を緩めすぎると、信号の変わり目の判断ミスや、発見が遅れただけのケースまでもが、殺人にも匹敵する重罪(懲役20年など)で処罰されかねないという問題が生じます 。
結論:法改正ではなく「立証技術」で対抗
最終的に報告書では、条文を変えることは技術的に難しいと結論づけました 。その代わり、ドライブレコーダーや防犯カメラなどの客観証拠を駆使し、「外形的に見て信号に従う意思がなかった」ことを立証することで、運用の中で厳正に対処すべきとしています 。
「中間的な罪」の創設見送り
「危険運転(故意犯)」のハードルが高すぎるなら、その手前に「準危険運転罪」のような中間の犯罪を作ればいいのではないか──。こうした「中間的な犯罪類型」の創設も議論されました 。 具体的には、「酒気帯びや高速度で死傷させた場合」を、過失犯(7年以下)より重く、危険運転(20年以下)よりは軽い罪として処罰する案です。
既存の仕組みで十分?
しかし、これについても報告書は消極的でした。理由は**「現行法でも重く処罰できるから」**です 。 実は、過失運転致死傷罪と、道路交通法違反(酒酔い運転など)は「併合罪」として扱われ、懲役刑の上限は最大で「10年以上」に引き上げられます 。 新たに中途半端な罪を作らなくても、既存の法律を組み合わせることで適切な量刑は可能であり、屋上屋を架す必要はないと判断されました 。
法定刑の引き上げ:「立法事実がない」
被害者感情として最も強い「刑をもっと重くしてほしい」という要望についても、慎重な姿勢が貫かれました 。
刑法のバランスと「立法事実」
- バランスの問題: 危険運転致死傷罪の最高刑(懲役20年)は、人を殴って死なせた「傷害致死罪」と同等です。これをさらに引き上げると、他の刑法犯とのバランスが崩れてしまうという法的な制約があります 。
- 「立法事実」の不在: 法定刑を引き上げるには、「今の刑罰では軽すぎて犯罪が防げない」「裁判で上限いっぱいの判決ばかりが出ている」といった事実(立法事実)が必要です。 しかし現状のデータでは、裁判での量刑が上限(懲役7年や20年)に張り付いているわけではなく、裁判官の裁量の範囲内に収まっているため、「刑を引き上げる根拠となる事実がない」と判断されました 。
数値基準は「解決策」になるのか?
今回の報告書は、長年の課題であった「危険運転の認定」に対し、数値基準という客観的な物差しを持ち込む大きな一歩となりました。しかし、これで全ての問題が解決するわけではありません。むしろ、ここからが本当の議論のスタートとも言えます。
法改正までの道のり
今回の報告書は、あくまで有識者検討会としての「取りまとめ」です。 今後はこの内容を受け、法務省が具体的な法整備に向けた検討を進めます。通常の手続きであれば、法相の諮問機関である「法制審議会」での審議を経て法案が作成され、国会に提出されることになります。 実際に法律が変わり、施行されるまでには、まだ一定の期間(数年単位の可能性も)を要すると見られます。
新たな懸念:「基準値未満」はどう扱われるのか?
数値基準の導入は「明確化」というメリットをもたらしますが、同時に**「基準値による切り捨て」**という新たなリスクも生み出します。
- 「ギリギリ未満」の悪質運転: 例えば、アルコールの基準値が「呼気0.5mg」に設定された場合、「0.49mg」だった運転者はどうなるのでしょうか。 報告書でも、「数値基準を下回る場合にも『正常な運転が困難な状態』といえる場合があり得る」との指摘があります。基準値を下回った途端に、実態は危険でも一律に「過失犯」として扱われるようになれば、かえって処罰の網の目が粗くなりかねない──この点について、どう手当てするかが今後の制度設計の鍵を握ります。
- 「ここまでなら大丈夫」という誤解: 「制限速度の2倍までは危険運転にならない」といった誤ったメッセージとして受け取られ、かえって無謀な運転を助長しないかという懸念もあります。
被害者の無念に応える実効性を
これまでの危険運転致死傷罪は、条文の要件があまりに厳格で、解釈が抽象的であったために、多くの遺族が「司法の壁」に苦しめられてきました。 今回の見直し議論は、そうした声を反映し、「人の主観」に頼る判断から「客観的な数値」による判断へと、司法のあり方を大きく転換させる可能性を秘めています。
法務省には今後、冤罪を防ぐ慎重さと、悪質な運転を決して逃さない厳正さの両立を目指し、国民が納得できる法案を練り上げることが求められています。
【記事執筆のための用語集】
- 危険運転致死傷罪(法第2条): 故意(わざと)に危険な運転をし、人を死傷させた場合に適用。最高刑は懲役20年。
- 過失運転致死傷罪(法第5条): 不注意(ミス)で事故を起こした場合に適用。最高刑は懲役7年。
- 法制審議会: 法務大臣の諮問に応じて、民事法、刑事法などの基本的な法制度の整備・改正について調査・審議する機関。
- 構成要件: 犯罪が成立するために必要な条件(例:「アルコールの影響により正常な運転が困難な状態」など)。

